Friulmodel 「Grenadine Quadi late 14th C.」(3) コーラン写本の考証
2014年 12月 10日
このフィギュアの左手に持たれた本・・・まぁ、コーランなんだろうなぁ・・・と受け取ったのだが、素直に受け取ってしまったが故に、いらん苦労をしました。
写実的な絵画が少ない(無い訳では無い)イスラム世界にあって高度に発展した書道の世界。ミニチュアでは大した解像度で再現できないのは承知の上で、少しは知っておかねば成るまいと下記の本を参考に調べてみました。
残念ながら絶版なので、図書館で借りてきました。本当に公立図書館ってのは大切なんですよ。それを民間に委託するなんて・・・うちの自治体の話じゃないけど・・・ぶつぶつ。
ふくろうの本
『図説 コーランの世界 写本の歴史と美のすべて』
著:大川玲子
河出書房新社 2005年
ISBN4-309-76060-0
多くの宗教において、神や開祖の教えは口述によってもたらされ、口伝によって継承された。予言者ムハンマドの口を通ってアラビア語の形でもたらされた神の教えも同様であり、今でもそれは重要視されているという。しかしながら口伝故の限界も有り、これまた他の宗教と同様に、ムハンマドの言葉(神の言葉)を文字の形で伝承する事となる。これがコーラン(クルアーン)である。
コーランが誕生したのは第三代正統カリフ(在位644-656)ウスマーンの時代とされ、以後、ムスリムの版図が広がるにつれ、その支配地域や接する異教徒の文化を貪欲に吸収し、コーランの形式は変化し続けている。
~9世紀
この時代を象徴する様な写本形式が、「クーフィー体」で書かれた物である。
クーフィー体は、コーランにのみ用いられた字体で、岩に彫り込んだ文字を由来とすると言われる様に、直線的な書体となっている。この格式あるクーフィー体で書かれた写本の特徴は、横長の獣皮紙に、たっぷりと空間を取って筆記される事である。
獣皮紙は肉側と毛側で色や質感が異なる。コーランに用いる獣皮紙は、五葉を重ねて綴じ一帖とし、それを綴じ合わせて一冊とする。それ故に、多くの見開きで左右のページの色が変わる。これがキリスト教の獣皮紙本では、綴じ方の違いで、左右のページは同じ側の皮となり、色が変わらない。
一方で、この時代、一般文章は縦長のパピルスに「ヒジャージー体」という字体で書かれている。ヒジャージ体で書かれた写本もあり、これらは縦長の獣皮紙に、各章の題名を表す植物文様といった記号類が省かれ、空間を取らずにビッシリと文字のみが書き込まれている。現存する最古のコーランもヒジャージー体で獣皮紙に書かれており、より宗教的格式の高いクーフィー体の写本と、より世俗的で実利的なヒジャージ体の写本とがあった様に思われる。
10世紀~13世紀
この時代、獣皮紙に変わって紙が、クーフィー体に変わってより草書的な字体が用いられる様になる。また紙の使用により、製本・装丁の技術が向上していく事となる。
イスラム世界に中国より紙がもたらされ、バクダードに製紙工場が建てられるのは8世紀の事である。以後、イスラム世界の写本は急速に紙の本へと変わっていくが、コーランに用いられる様になるのは、10世紀末~11世紀にかけてである。これは高価な獣皮紙に、格式を見いだしたからの様である。
10世紀頃までには、クーフィー体をより書きやすく読みやすくした「崩れ草書体」と呼ばれる字体が用いられる様になった。元々は公文書に用いられた字体であったが、これがコーラン写本に取り入れられる事となる。
更には「アラビア書道の予言者」とまで呼ばれたイスラム帝国アッバース朝宰相イブン・ムクラ(886-940)が定めたナスフ体・ムハッカク体・ライハーン体・スルス体・タウキーウ体・リカーウ体という「六書体」が11世紀初頭より用いられ始め、後の書道家によって字体や書記方法が工夫、発展していく事となる。
ただし、「崩れ草書体」や、つづいて「六書体」が一般的になるからといってクーフィー体が廃れた訳では無く、表題などに用いられるなど、これらの字体が使い分けられる様になる。
13世紀末~15世紀
アッバース朝滅亡後、東はモンゴル系イル・ハーン朝(1258-1353)・トルコ系ティムール朝(1370-1507)、西はマムルーク朝(1250-1517)に二分され、トルコにはオスマン朝(1299-1922)が勃興する。アッバース朝滅亡後の半世紀ほどは写本制作は途絶えるが、後に復活する。
この時期、発展を見るのは製本技術で、合板紙を皮で覆ったハードカバーが付けられる様に成り、(エジプトのキリスト教コプト派の影響から)前小口をカバーする折り返しが裏表紙側に付けられる様になる。また表面には幾何学文様や植物文様の型押しがされる事も多くなり、15世紀までには中心部に楕円形のメダリオンや四隅に文様が施される様になった。
イル・ハーン朝では蓮や牡丹・青海波などの装飾が用いられる様になり、コーラン写本の世界に中華世界の文様が取り入れられていく。
ティムール朝では多種の字体を組み合わせる技法なのイスラム書道が花開く。特にイル・ハーン朝やマムルーク朝では「乾いた文字」と呼ばれる直線の多いナスフ体・ムハッカク体・ライハーン体のみが用いられたのに対し、曲線が多く躍動的な「湿った文字」と呼ばれる・スルス体・タウキーウ体・リカーウ体が用いられる事もあった。また表題などの字体を変える事は以前もあったが、本文の字体も行毎に変化させるなど、多彩な書式が使われた。
マムルーク朝では星形幾何学文様が好まれ、旧来の植物文様やイル・ハーン朝から引き継いだ中華文様と組み合わせながら、コーラン写本の装飾に多用された。
16世紀~
この時代、イスラム世界を支配するのはオスマン朝(トルコ)、サファヴィー朝(イラン)、ムガル朝(インド)である。イスラム世界の爛熟と一にしてコーラン写本の技術も精華を極める。
前時代までの幾何学文様は廃れ、代わりに用いられる様になったのがアラベスク文様で、技法のの発展から彩色(特に金と青が好まれた)に用いられる色も増加した。こうしたアラベスク文様や彩色に半ば文字が埋もれるかの様な緻密な装飾が用いられた。その文字も字体は洗練発達し、多様な書体を使い分ける書式が確立する。装丁もより凝った作りになり、裏表紙にも文様が施される様になった。製本技術も発達し、携帯可能な片手に収まるより小型の写本も制作された。
イスラム世界と同時に、コーラン写本制作の中心はオスマン朝の首都イスタンブールとなっていくが、各地に地域色豊かなコーラン写本の世界が広がって行った。
18世紀~
欧州の発展に圧迫され沈下していくイスラム世界と歩を合わせてコーラン写本は衰退していく。
フランス美術の影響を受けたロココ調の装飾をした写本がイスタンブールで制作されるというケースもあるにはあったが、総じて写本の世界は保守的であった様である。
これは印刷技術の導入にもみられ、技術の導入自体は行われても、草書体のアラビア文字を印刷する技術的困難さと、書道を重んじる文化的背景から、1485年にスルタンの勅令でアラビア文字の活字印刷を禁じている。これが解かれるのは1727年である。しかし、リトグラフによる印刷は18世紀に行われているが、活字による宗教書の印刷は許されなかった。コーランが活字印刷によって出版されるのは1924年のエジプトにおいてであり、「標準エジプト版」と呼ばれ、現在、最もスタンダードな印刷されたコーランとなっている。
西方コーラン写本の世界
さて、コーラン写本の歴史を備忘録的にまとめてみたが、問題の14世紀のナスル朝のカーディが手にしているであろうコーラン写本について考察してみたい。
イベリア半島や北アフリカといった西方イスラム世界のコーラン写本は、今まで述べてきたエジプト以東のイスラム世界とは違う独特の発展をみた。西方イスラム世界のコーラン写本の特色は、保守性と言える。
先ずは「マグリビー体」の使用があげられる。
チュニジアで生まれたマグリビー体は、クーフィー体から派生した字体で、形成は10世紀より始まり12世紀初頭までに確立された。
11世紀になると、東のアッバース朝ではクーフィー体は使用頻度が落ち、草書体的字体が一般的になる中、古式を感じさせるマグリビー体が使われ続ける。
また判型が横長(クーフィー体)や縦長(その他の書体)では無く、正方形が多く、色彩も明るいというのも特長である。
写本の材質も、11世紀にはイスラム世界では紙の使用が中心となるが、この西方では14世紀頃まで獣皮紙の使用が続いていた。
これは地理的条件からか、紙の製法自体は伝来していた、非常に高価であった事による。
装飾に関しても、マムルーク朝以降、幾何学文様が廃れていくのに反し、この地では以前、装飾の中心であり、特に正方形と円・組紐と結び目といった組み合わせが好まれた。
また、中華起源の文様などモダンな要素は乏しく、植物文様も古式で素朴な物が少々用いられるだけ、文章を枠で囲うなどといった装飾も用いられずと、古式ゆかしいクーフィー体写本の装飾を継承している。
こういった西方イスラム様式の写本世界は、キリスト教徒のレコンキスタ達成を告げる1492年グラナダ陥落により終焉を迎える。
写実的な絵画が少ない(無い訳では無い)イスラム世界にあって高度に発展した書道の世界。ミニチュアでは大した解像度で再現できないのは承知の上で、少しは知っておかねば成るまいと下記の本を参考に調べてみました。
残念ながら絶版なので、図書館で借りてきました。本当に公立図書館ってのは大切なんですよ。それを民間に委託するなんて・・・うちの自治体の話じゃないけど・・・ぶつぶつ。
ふくろうの本
『図説 コーランの世界 写本の歴史と美のすべて』
著:大川玲子
河出書房新社 2005年
ISBN4-309-76060-0
多くの宗教において、神や開祖の教えは口述によってもたらされ、口伝によって継承された。予言者ムハンマドの口を通ってアラビア語の形でもたらされた神の教えも同様であり、今でもそれは重要視されているという。しかしながら口伝故の限界も有り、これまた他の宗教と同様に、ムハンマドの言葉(神の言葉)を文字の形で伝承する事となる。これがコーラン(クルアーン)である。
コーランが誕生したのは第三代正統カリフ(在位644-656)ウスマーンの時代とされ、以後、ムスリムの版図が広がるにつれ、その支配地域や接する異教徒の文化を貪欲に吸収し、コーランの形式は変化し続けている。
~9世紀
この時代を象徴する様な写本形式が、「クーフィー体」で書かれた物である。
クーフィー体は、コーランにのみ用いられた字体で、岩に彫り込んだ文字を由来とすると言われる様に、直線的な書体となっている。この格式あるクーフィー体で書かれた写本の特徴は、横長の獣皮紙に、たっぷりと空間を取って筆記される事である。
獣皮紙は肉側と毛側で色や質感が異なる。コーランに用いる獣皮紙は、五葉を重ねて綴じ一帖とし、それを綴じ合わせて一冊とする。それ故に、多くの見開きで左右のページの色が変わる。これがキリスト教の獣皮紙本では、綴じ方の違いで、左右のページは同じ側の皮となり、色が変わらない。
一方で、この時代、一般文章は縦長のパピルスに「ヒジャージー体」という字体で書かれている。ヒジャージ体で書かれた写本もあり、これらは縦長の獣皮紙に、各章の題名を表す植物文様といった記号類が省かれ、空間を取らずにビッシリと文字のみが書き込まれている。現存する最古のコーランもヒジャージー体で獣皮紙に書かれており、より宗教的格式の高いクーフィー体の写本と、より世俗的で実利的なヒジャージ体の写本とがあった様に思われる。
10世紀~13世紀
この時代、獣皮紙に変わって紙が、クーフィー体に変わってより草書的な字体が用いられる様になる。また紙の使用により、製本・装丁の技術が向上していく事となる。
イスラム世界に中国より紙がもたらされ、バクダードに製紙工場が建てられるのは8世紀の事である。以後、イスラム世界の写本は急速に紙の本へと変わっていくが、コーランに用いられる様になるのは、10世紀末~11世紀にかけてである。これは高価な獣皮紙に、格式を見いだしたからの様である。
10世紀頃までには、クーフィー体をより書きやすく読みやすくした「崩れ草書体」と呼ばれる字体が用いられる様になった。元々は公文書に用いられた字体であったが、これがコーラン写本に取り入れられる事となる。
更には「アラビア書道の予言者」とまで呼ばれたイスラム帝国アッバース朝宰相イブン・ムクラ(886-940)が定めたナスフ体・ムハッカク体・ライハーン体・スルス体・タウキーウ体・リカーウ体という「六書体」が11世紀初頭より用いられ始め、後の書道家によって字体や書記方法が工夫、発展していく事となる。
ただし、「崩れ草書体」や、つづいて「六書体」が一般的になるからといってクーフィー体が廃れた訳では無く、表題などに用いられるなど、これらの字体が使い分けられる様になる。
13世紀末~15世紀
アッバース朝滅亡後、東はモンゴル系イル・ハーン朝(1258-1353)・トルコ系ティムール朝(1370-1507)、西はマムルーク朝(1250-1517)に二分され、トルコにはオスマン朝(1299-1922)が勃興する。アッバース朝滅亡後の半世紀ほどは写本制作は途絶えるが、後に復活する。
この時期、発展を見るのは製本技術で、合板紙を皮で覆ったハードカバーが付けられる様に成り、(エジプトのキリスト教コプト派の影響から)前小口をカバーする折り返しが裏表紙側に付けられる様になる。また表面には幾何学文様や植物文様の型押しがされる事も多くなり、15世紀までには中心部に楕円形のメダリオンや四隅に文様が施される様になった。
イル・ハーン朝では蓮や牡丹・青海波などの装飾が用いられる様になり、コーラン写本の世界に中華世界の文様が取り入れられていく。
ティムール朝では多種の字体を組み合わせる技法なのイスラム書道が花開く。特にイル・ハーン朝やマムルーク朝では「乾いた文字」と呼ばれる直線の多いナスフ体・ムハッカク体・ライハーン体のみが用いられたのに対し、曲線が多く躍動的な「湿った文字」と呼ばれる・スルス体・タウキーウ体・リカーウ体が用いられる事もあった。また表題などの字体を変える事は以前もあったが、本文の字体も行毎に変化させるなど、多彩な書式が使われた。
マムルーク朝では星形幾何学文様が好まれ、旧来の植物文様やイル・ハーン朝から引き継いだ中華文様と組み合わせながら、コーラン写本の装飾に多用された。
16世紀~
この時代、イスラム世界を支配するのはオスマン朝(トルコ)、サファヴィー朝(イラン)、ムガル朝(インド)である。イスラム世界の爛熟と一にしてコーラン写本の技術も精華を極める。
前時代までの幾何学文様は廃れ、代わりに用いられる様になったのがアラベスク文様で、技法のの発展から彩色(特に金と青が好まれた)に用いられる色も増加した。こうしたアラベスク文様や彩色に半ば文字が埋もれるかの様な緻密な装飾が用いられた。その文字も字体は洗練発達し、多様な書体を使い分ける書式が確立する。装丁もより凝った作りになり、裏表紙にも文様が施される様になった。製本技術も発達し、携帯可能な片手に収まるより小型の写本も制作された。
イスラム世界と同時に、コーラン写本制作の中心はオスマン朝の首都イスタンブールとなっていくが、各地に地域色豊かなコーラン写本の世界が広がって行った。
18世紀~
欧州の発展に圧迫され沈下していくイスラム世界と歩を合わせてコーラン写本は衰退していく。
フランス美術の影響を受けたロココ調の装飾をした写本がイスタンブールで制作されるというケースもあるにはあったが、総じて写本の世界は保守的であった様である。
これは印刷技術の導入にもみられ、技術の導入自体は行われても、草書体のアラビア文字を印刷する技術的困難さと、書道を重んじる文化的背景から、1485年にスルタンの勅令でアラビア文字の活字印刷を禁じている。これが解かれるのは1727年である。しかし、リトグラフによる印刷は18世紀に行われているが、活字による宗教書の印刷は許されなかった。コーランが活字印刷によって出版されるのは1924年のエジプトにおいてであり、「標準エジプト版」と呼ばれ、現在、最もスタンダードな印刷されたコーランとなっている。
西方コーラン写本の世界
さて、コーラン写本の歴史を備忘録的にまとめてみたが、問題の14世紀のナスル朝のカーディが手にしているであろうコーラン写本について考察してみたい。
イベリア半島や北アフリカといった西方イスラム世界のコーラン写本は、今まで述べてきたエジプト以東のイスラム世界とは違う独特の発展をみた。西方イスラム世界のコーラン写本の特色は、保守性と言える。
先ずは「マグリビー体」の使用があげられる。
チュニジアで生まれたマグリビー体は、クーフィー体から派生した字体で、形成は10世紀より始まり12世紀初頭までに確立された。
11世紀になると、東のアッバース朝ではクーフィー体は使用頻度が落ち、草書体的字体が一般的になる中、古式を感じさせるマグリビー体が使われ続ける。
また判型が横長(クーフィー体)や縦長(その他の書体)では無く、正方形が多く、色彩も明るいというのも特長である。
写本の材質も、11世紀にはイスラム世界では紙の使用が中心となるが、この西方では14世紀頃まで獣皮紙の使用が続いていた。
これは地理的条件からか、紙の製法自体は伝来していた、非常に高価であった事による。
装飾に関しても、マムルーク朝以降、幾何学文様が廃れていくのに反し、この地では以前、装飾の中心であり、特に正方形と円・組紐と結び目といった組み合わせが好まれた。
また、中華起源の文様などモダンな要素は乏しく、植物文様も古式で素朴な物が少々用いられるだけ、文章を枠で囲うなどといった装飾も用いられずと、古式ゆかしいクーフィー体写本の装飾を継承している。
こういった西方イスラム様式の写本世界は、キリスト教徒のレコンキスタ達成を告げる1492年グラナダ陥落により終焉を迎える。
by redsoldiers
| 2014-12-10 23:32
| フィギュア製作
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